聖書
ヨハネによる福音書 1章1節~3節
初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは、初めに神と共にあった。万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
プラトンに代表される紀元前のギリシャの哲学者たちは、この「ことば」というものに大きな関心を抱いてました。言(ことば)から論理が離れたり、言(ことば)は記号であるといった議論は、かなりあとの話であり、言(ことば)は、実体そのものだったわけです。
ロゴスという語には、記号としてのことばも、論理性も含まれている語で、ことばと実体が一緒になった語です。プラトンはイデアを優先させ、それを言(ことば)が再現するという発想をしたわけですが、この聖書の箇所を読むと、初めにことばがあり、ことばと神は一体のものとして書かれています。
万物は神のことばによって成っており、神とことばが一体となっているので、聖書に従うことは、神に従うことになるわけです。神から遠ざかることが、いわゆる原罪と呼ばれるものですね。聖書に書いてあることに近づけて生きることが、救いとなると。
過去から現在までのできごとをことばで再現するということは、起こった事実をことばで再構築することですが、まだ起こってないことをことばで作り、実際をそれに合わせるということも、できるわけで、それは一種の創造です。
海になれ、といったら海が現れる、山になれ、といったら山が現れる、というのはかなり神がかった話ですが、今日の夕方、6時ごろ、町田で会おうね、といったら、本当に町田で会うことは、あまりかけ離れたことでもないわけで。これも創造で、神がかっているわけです。創ったことばの世界に、実際が、合ってくるわけなので。
さて、ことばに説得力があればあるほど、それが本当にそのようになる、本当に起こる確率が高くなります。逆に、作ったことばの世界が、あまり魅力のないものであれば、実体がことばの世界に合ってこなくなります。
仕事でそんなことはありませんか?説明不足のプレゼン、マトを得ないメール、形が見えない資料など。
簡単なことは、かんたんな言葉であらわせるけど、難しくて、複雑なことは、当然、複雑なことばで表すことになります。また、実体や実際が、明確にまとまってない状態で、言葉にすると、ぐちゃぐちゃな表現となり、なにがなんだかわからないコミュニケーションになります。
そう、万物はことばによって成るけれども、ことばが未熟なら、成らないのです。
言行一致ということもありますね。言ったことをちゃんとやってる人は信頼されるけれども、言うこととすることが異なる人は、信用されません。つまり、ことばと行動が合わなければ、その人の信頼度、つまり、エトスが宿らないわけです。
エトスがない人は、何を言っても、信用されません。たとえ正しいことを言っても、相手にされなくなっちゃいます。
初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは、初めに神と共にあった。万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
何回もこの句を、読んでみて、解釈してみてください。