先日、海外出張の帰りの飛行機の中で映画を観ました。ヒーローもので、基本的にはよくある話なのですが、比較的新しい作品です。
ヒーローものはだいたいにおいて、日常の生活から始まり、ある事件が起こり、何か悪い人たち、悪いものが出てきて、それを倒すために立ち上がり、困難を何回も乗り越えて危機に陥りますが、最後は勝って、世の中に平和が戻るという感じです。
観た作品も、サブプロットはいろいろありましたが、大筋はこんな感じでした。
英文学の中に、アーサー王を主題とした作品があります。私がきちんと読んだのは、マロリーという作家が書いた長編で、15世紀くらいのものです。テーマは、「騎士道」で、アーサー王の他には、ランセロットなどの有名なキャラクターも登場します。
騎士道は、騎士たるもの、守るべき理念があり、どれだけ遵守、実行できているかによって、その位やレベルが評価されます。例えば、それは強さであり、勇気であり、正直さであり、誠実さ、寛大さ、礼儀正しさなどです。
これらを追求することによって騎士としての品格を向上させることができるのですが、ここに、現代人にも通じる課題が隠されています。
人間は、相対的な価値観の狭間で生きていると言われます。つまり、物事を比べることによって、良し悪しや善悪、正誤を判断しているということ。常に相対的で、一定の基準に照らし合わせて感じ取っている生き物だと。
そうすると、相対の基準が動けが、感じ方も異なってくるわけで。
例えば、とても苦しい経験をしたあと、ちょっとした苦労に直面すると、ちっともたいしたことじゃないと感じる。この前の苦労に比べれば、なんて。
でも同じような苦労でも、それまで大した苦しさを味わってなければ、それが本当に大変なことに思えてしまう。つまり、どのあたりを基準として持っているか、あるいは、他のどの程度のことと比較対照するかによって、感じ方や判断が変わってしまうのですね。
結果、様々な喜怒哀楽が発生する。くやしかったり、怒りがわいたり、悲しかったり、落胆したり、嫌になったり。これらはすべて、相対的な価値観の中で発生する人間の感情で、だからこそ人間は苦悩するわけで、言い換えれば、相対的な価値観の奴隷になっているとうわけです。
で、さきほどの騎士道の中で説かれている、例えば勇気や正直さ、誠実さ、寛大さなどは、誰と比べてとか何と比べてではなくて、「常に勇気を持って」「常に正直で」「常に誠実で」「常に寛大で」、という絶対的な努力目的なのです。相対的な努力ではなくて、単純に、常に、できるだけそうありなさいという、いわば、「絶対価値」の世界なのです。
すると何が起こるか。比較対象の基準で物事を判断したり、感じたりしないので、そのような苦悩から解放されるのです。常に、そうあれということだけの世界で頑張った感、頑張れた感だけが残り、相対的な判断や基準から自分を解放することができるのです。
騎士たるもの、こうあれ!ということに精進するだけですから。
今日の聖書箇所は、次のように書いてあります。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
「愛」でくくってはいるものの、先ほどの騎士道の主要概念のようなものが、たくさん並んでますね。これは全部、比較ではなくて、絶対価値の世界なのです。これらの価値の中で生き抜くことが結局は、愛の世界なのだと。
そしてそれが自分を相対的な苦悩から解放すると。
そんなとこです。
——
賛美歌 59 この地を造られた
聖句 コリント1 13章4〜7節
—