朝礼拝 10月 2019

来週は、認証評価の実地調査です。本学は、日本高等教育評価機構の評価を受けます。評価団体は他にも大学改革支援・学位授与機構や大学基準協会などがあります。新たな評価団体設立もいくつか計画されているようです。

私自身も評価団体の評価員や理事をやっていますが、今回は、評価を受ける側の大学の学長として、しっかりと対応したいと思います。

外部評価を受けるにあたり、複数の基準のもとに、様々な評価項目が定められています。認証評価では、そのような項目で要求されている基準をきちんと満たしているかどうかという審査と判断がなされます。

例えば、「学生の意見を拾い上げ、教学や学生サービスの改善に反映するシステムができているかどうか」とか、「教育研究領域と収容定員数に対して、法で定められている教員数は足りているか」など、数多くの項目があります。もちろん、すべての基準を満たさなければ、適合する大学として認められません。

さて、話は少し変わりますが、この「基準」をしっかり持つということは、個人レベル、組織レベル、また、社会レベルでも、有意なことだと思います。

自分の中にしっかりした基準を持っていれば、日々の言動のための参照として機能するからです。基準に照らし合わせて、日々の思考判断、行動を決めていくという感じでしょうか。

そして、その際に「厳格さ」と「寛容さ」のバランスが必要になってくると思います。一定の基準を満たす、または超えているということは、そのことに関する質やレベルが高いということですので、基準に達した言動や判断、行動になっているかを厳格に審査することが基本です。それが、どの程度、どのレベルまで、できているかということ。

一方で、厳格に審査しすぎるあまり、達しない時に、諦めてしまったり、なげやりになってしまったりすることもあるので、時には寛容さの中で、対応した方が、結果的には効果が上がる場合もあるでしょう。個人レベルでも、組織レベルでも、そのようなバランスが必要なのだろうと思います。

また、単に基準を守る、基準を達成するということのみに注力するだけでは、意味がありません。「なぜ、そのような基準を満たす必要があるのか」という問いの方が重要です。つまり、「全体として何を達成したいのか」という目的が、前提となっていなければなりません。

大きな目的を達成するために、具体的な目標や指標、基準を設けて、チャレンジするということ。なので、「大きな、意味のある目的」の中に、基準を設け、厳格に、寛容に、取り組むという状態が望ましい。

さらに、目的を持つには、私たちが何に対して「価値」を感じるかということが、手がかりになります。価値というとお金も思い浮かぶでしょうが、お金は、それとしては価値がなく、何か同等の価値を有する物事に代替できるという取引が成立するときに、価値が生じます。

以前、お金で買えるもの、お金で買えないものという切り口の、テレビのコマーシャルがありましたが、自分が主観として感じ取れる価値を重視することが大事です。

生きがいとか、やりがいとかという概念は、それこそ、大きな大きな価値だと言えます。私たちの、知識や経験、思いや感情、技術や技能など、すべてに価値があり、自分はどのようなことに価値を感じて、生きていけるのか、これが大事なのです。

仕事が面白く、大きな価値を見いだせれば、週末に遊ぶことさえ、つまらなくなります。これからは、単純作業等はテクノロジーで代替できるようになるので、本当に価値を感じるものに、全力で取り組める時代になると言われています。

すると、どんな人生を送りたいか、どんな社会に生きたいか、どんな組織にしたいか、どんな状況を創りたいか、といった、創造的な発想に変わっていくということだと思います。

あなたが、あなた自身でこれらを考え、実行に移していくということです。

キャンパスを歩くと、いろんなところで、「学長がそう言っている」とか「学長の考えです」という言い方で、現場の仕事が進められているという話を聞きます。

ほとんどの場合、そんなことは言ってないけどね(笑)。

議論に終止符をうつために、「学長の判断だ」という刀が持ち出されるのでしょう。問題解決には有効な手段ですね(笑)

でも、それは、自分のチャレンジとして取り組んでなくて、誰か他の人の力を借りて、その場を収めようとするので、自分としての成長がないですよね。自分を高めるためには、そこは頑張らないと。そこを頑張り切らないと、仕事がおもしろいと感じらるようにならないと思います。

今日の聖句は、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者も少ない」です。

本来はもっと信仰上の意味があるのですが、ただ単に、テキストとして率直に受け取った場合、「狭い門から入りなさい」というのは、人がしないこと、自分の頭で考えたこと、自分が本当に価値を感じで、自分として大切だと思うことを、勇気を持って、進み行きなさいということですよね。

大衆が歩む大きな道に自分を委ねて、主体的な意思も思考もなく行動すれば、楽かもしれないが、人生の意味としては空虚なもので、つまり、一種の滅びに至ってしまうということ。

基準、厳格と寛容、価値、意味や意義、そして、主体的な思考や判断、行動。

このあたりの実践による栄光への道が、この聖句に含まれているうような気がします。

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賛美歌 537 眠りからさめよ

聖句 マタイによる福音書 7章13〜14節

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者も少ない。


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