朝礼拝6月 2019

大学も最近は、アカウンタビリティ(説明責任、社会からの了解や合意を得る努力)、コンプライアンス(法令遵守、公正・公平な業務の遂行)を強く求められるようになりました。

自分たち以外の人々に対して、自分たちの取り組みの正当性をわかりやすく説明することが求められているのですね。

例えば、教学では、アドミッション、カリキュラム、ディプロマについてそれぞれ、ポリシーを定めることが義務付けられています。入学者を選ぶときの考え方や方法、カリキュラム編成の考え方や方法、そして、学位を出すことに関する考え方や方法など。

一方、業務では、SWOT分析をやって、戦略を立てたり、PDCAサイクルを回して業務改善を行ったり。

これらの大きな動機は、「わかりやすさ」です。自分たちも、自分たち以外の人も、やってることをわかりやすく説明し、同意、合意、納得した上で、業務にあたるということですね。

ただ、この「わかりやすさ」には落とし穴があります。難しいことを、本当に易しくできるのか?易しい概念で、本当に大丈夫か?複雑さや難しいことには理由があって、その難しさや複雑さに、意味や意義があるのではないか?

つまり、難しいにはちゃんと理由があって、それを易しく、わかりやすくしてしまうことのリスクはないのだろうかということです。

複雑な心境を言葉にする時に、ちょうどぴったりとくる言葉がないように、複雑な状況や難しい問題は、ぴったりくる言葉はないだろうということ。

状況そのものが整理整頓できてない時に、無理やりアカウンタビリティやコンプライアンスを求めようとしても、かえって齟齬が生まれ、混乱を生じさせるのではないのか。

まあ、そんなところですね。複雑な対象はやはり、難しいのです。

どうすればいいか?

難しいからといって、対話をやめてしまったらそこで終わりなので、対話によってできる限り真理に近づく努力を続けることが大事です。

ダイアローグです。

捉えようとする対象を、平易な言葉で片付けるだけなら、その対象には近づけないでしょう。

今日の聖句で言えば、ご在天の全知全能の神は、時間や空間を超越して物事を瞬時に把握するのでしょうが、地にいる人間はそうもいかないですので、時間と空間の制約の中で、順を追って、真理に近づくしかないでしょう。

対話を続けることですね。


賛美歌 217 一日の仕事を終え

聖句 ヨハネによる福音書 3章31節


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