AI(Artificial Intelligence )、いわゆる人工知能と訳される。
AIが普及し、様々な「モノ」が人間の思考や行動に限りなく近づく時、いろんな「コト」が人間を介さないで起こるようになる。そのような時代に生きる「ヒト」を育てるには、どのような教育が必要か。
AIの時代には、知識や技術を教えるのではなく、発想法を変えたり、常識を疑ったり、新しい価値を創造したりするスキルが必要とされる。
そういえば、90年代に留学していた時に、大学院の授業で、「HEURISTICS」という授業があった。発見法とか問題解決法などと訳されていたが、もう少し、そのような訳では表せないような内容だったと思う。
それから、日本ではほとんど聞かないが、「PROBLEMATOLOGY」という授業も履修した。これは発問法とでも訳そうか。問題設定や問いの立て方で、すでに答えが限られており、その思考から人間はなかなか抜け出せないという指摘で、行き詰まる時には、問いの立て方が間違っているといった授業だった。
私の師匠は、Stephen Yarbrough で、レトリック学や批評理論の大家である。
https://english.uncg.edu/people/faculty/yarbrough.html
いつも奇抜な、ユニークな論をまとめ上げている本を見つけて選んできては、授業でディスカッションさせる人だったので、苦労が多かったが、学びは深く、広かった。考える幅をかなり広げられたという実感があった。
上述の授業はすべて、Yarbrough 先生の授業だ。私は彼の指導下で、博士号を取得したので、発想法やクリティカルな見方も、ちょっと奇人で変わってるかもしれん。
問いの立て方ひとつで、考えなきゃいけないことががらっと変わるので、実務の世界では、できるだけ前向きな問い方にしたほうがよい。できるのか?とか、できなかったらどうするんだ?などという問い方が市民権を得ることが多いが、どうやったらできるか?と問うほうがよっぽど生産的で前向きである。
そういうのは一種の癖かもしれない。
あと、定義を変えてみるのもいい。例えば、自動車は、移動の手段ではあるものの、自動車=居住空間、自動車=ファッションやスタイル、自動車=アイデンティティという定義にすると、自動車作りはがらっと変わる。
大学=学術や学生生活、という発想から、大学=???? とやってみる。
すると大学作りががらっと変わる。
将来の社会を想像することが非常に重要で、そこで生ずるであろう問題や課題を考え抜いた上で設定して、そこで必要となる人材像を描き、逆算して教育プログラムを構築したらどうか。
自分のことでも良い。自分自身の将来像を描いて、逆算的にそこへの道筋を作ってみる。明日から自分作りが始められる。
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賛美歌 493 いつくしみ深い
聖書箇所 フィリピの信徒への手紙 4章6〜8節