ことばと実体の乖離

スピーチや挨拶を頼まれる機会が本当に多い。

ここ過去2ヶ月の間だけでも、職員向けの朝会で挨拶、保護者懇談会の挨拶、学会会場の代表者挨拶、学外の大学関係の会議でスピーチを3回、オープンキャンパスで挨拶を3回、同窓会で挨拶、教授会でスピーチ、産業界との集まりで挨拶、学内のプロジェクトで挨拶、葬儀でスピーチなどなど。

頼まれるのは、短い挨拶から本格的なプレゼンテーションまであり、内容も多岐にわたる。

その中で実感するのは、何か喋れと言われれば、何でもしゃべるが、適当に喋っても、中身が何もなければ、かえって有害であるということだ。知らないことは言葉にならないし、表す実体がないのに、単にことばだけ並べても、何も伝わらず、何も起こさないからだ。

やはり基本は大事で、「何を」「なぜ」「どのように」するかをその実体とともに語らなければならないし、物事の流れからすると、「誰が」「いつ」「どこで」そうするのかも、ひょっとしたらもっと大事かもしれない。

どんなトピックでも、どんな場面でも、どんな目的でも、短くても、長くても、挨拶やスピーチを行う時には、単純ではあるものの、これらの基本的な問いに答える語りが大事だと思う。

定型の決まり文句を並べたところで、それは単に、学長が来て話したということだけで、中身は何もなく、何も起こさない。学長が来たという非常に形式的な事実を残すだけだ。そんなこと、意味も意義もまったくないではないか。

話そうとすることをしっかりイメージし、それを表すことばを慎重に探し、形にして表すことが大事で、それを解釈するのはオーディエンスなので、コミュニケーションは協働作業なのである。

とつとつと、断片的な言葉を小さな声で発するスピーチでも、涙が出てくる感動的なものがある一方、身振り手振りでかなり上手なスピーチと思われるけれど、終わってみたら、何も残らないものもある。

やはり、話そうとする実体が自分の中になければ、語りに力が出てこないのである。ただしゃべってもしょうがない。

いろんな挨拶やスピーチを頼まれたら、語る実体が見つかるまで、思考の中での模索が必要なのだ。

© HIROAKI H. HATAYAMA 2018