創立記念礼拝 説教


タイトル:     桜美林に伝わる「石ころ」の精神

賛美歌:      463 わが行くみち

聖句箇所:     ヨハネによる福音書 14:5~7

 

桜美林に伝わる「石ころ」の精神

 

言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる(マタイによる福音書3:9、アブラハムとは旧約聖書に出てくるイスラエルの祖となる伝説的な人物)。


 みなさんこんにちは。今回は創立記念礼拝ということなので、桜美林の創立から現在に至るまでの歩みに基づいた話をしたいと思います。

 桜美林学園の創立者である清水安三先生の遺稿集として「石ころの生涯」という本があります。これは桜美林の教職員や学生たちのバイブルのような本として位置づけられ、愛読されています。この本はひとつの聖句から始まっています。「おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ」。マタイによる福音書の3章9節ですが、この前後も読んでみてください。安三先生はいたるところで、自分は劣等生だったと述べられています。自分は、まるで道に落ちている価値のない石ころのような存在だったと。しかし「そんな石ころのような人間でも、神様が用いてくだされば、新島襄や中江藤樹のような偉大な人物になれるのだ」という牧野虎次牧師の説教に触発されて、奮起したという逸話が残されています。

 私はこの話に、桜美林の長い歴史の中で根付いている強烈な教育思想と伝統を感じます。安三先生は教育者として、次のように述べられています。「私が手塩にかけると、いかなるできない生徒も、たちまちにして優等生にまで向上する。私はその点、一種の名人なのである。私自身は実に頭の悪い男である。しかし私が教えると、皆優等生になるのだからおもしろい」。つまり、どのような人間であっても、手塩にかけて育てれば立派な、偉大な人物に育つという強い信念があるのです。石ころも、手をかければ宝石に変わるというわけです。

 桜美林はキリスト教主義の学校ですが、特に、プロテスタントの思想を大事にしてきました。それは自由主義、民主主義の根幹となるもので、一人ひとりを公平、平等に扱います。そこには国籍や民族、宗教や文化による人間の差別を認めず、誰でも受け入れる寛容さがあります。大学の場合は、入学の定員が法律で決められていますので、入学者として受け入れる数についてはどこかで線引きをしなければなりませんが、創立以来、国際的な視野を重要視して、多様な留学生を積極的に受け入れてきているとともに、日本人の学生さんの海外留学も推進してきました。また、学生さんは誰であっても、夢や希望を実現する権利とチャンスがあり、学校としてもそれをできるだけ支えたいという強い思いがあります。つまり、キリスト教主義に基づく、清水安三先生の石ころの精神が流れているわけです。

 安三先生も、自分は石ころであると認識しながらも、その長い人生の中で多くの偉業を成し遂げられました。最初は中国で、貧困や災害の中で望みを失っていた数多くの人々に生きる力や社会的に自立し活躍できる能力を与えるとともに、社会そのものが変わるほどの改革改善を実現されました。戦後は日本で、この桜美林学園を設立し、発展させました。桜美林も今では1万人以上の学生生徒が学ぶ大きな学校に育っていますので、清水先生は本当に石ころから、その価値を測れないほどの大きな宝石になったわけです。

 さて、このような力はどこからくるのでしょうか。なぜ、安三先生は、自認する石ころのような存在から、多くの人々に求められる宝石に変わることができたのでしょうか。世の中にはたくさんの成功物語や偉人伝がありますが、安三先生の場合は、単に経済的、社会的に成功したというだけではないので、別の見方が必要だと思います。そこには、桜美林に受け継がれるいくつかの重要な理念や哲学があるように思えるからです。

 桜美林には、学而事人というモットーがあります。学んだことを通して人に事える、もっとストレートに言えば、人のために学ぶという発想です。安三先生はなぜこのことばを私たちに残したのでしょうか。それを理解するためには、自分のためではなく他の人のために学ぶということを最優先させる意義や理由について考えなければなりません。単に、利己的、自己中心的ではダメですよという倫理観の押し付けではないからです。これには、石ころが宝石に変わりえる大事な理由が隠されているのです。

一般的に、自分が社会的に出世しよう、成功しようと思ったら、自分のことを考えます。知識を得たり、技術を学んだり、経験を積んだりしますが、基本姿勢は自分の成長のためと考えます。また、自分が所属する組織や集団の中で、力のある人に認めてもらわなければ昇進もないでしょう。そのためには、今の自分より優位にある人、つまり、役職の高い人や経験者、権限を持つ人々から認めてもらうことが必要です。その結果、このような上位の人々のために働くことが自分の出世や成功の方法となります。これも人に仕えて働くことではありますが、自分のために働いていることになるので、清水先生が提唱した学而事人の精神とは少し離れています。

 清水安三先生が石ころとして尽くした人々は、社会的に力を持っている人々ではなく、災害や貧困で苦しんでいる人々や、自分の体を売って生活しているような貧しい女性たちでした。つまり、本人の出世や社会的な成功に直接結びつくような働きとは程遠い、社会的な弱者に対する献身的な奉仕でした。これももちろん、人のために尽くすということになります。このふたつは何がどのように違うのでしょうか?

自分が学んで修得した知識や経験を他の人々のために活かす際に、何が自分に戻ってくるかを考えれば、その違いがわかってきます。組織や集団の中で、自分より優位にある人々に尽くした結果得られるのは、報酬や褒美、激励という価値になります。一方、社会的弱者に尽くした結果得られるのは、感謝です。褒美や報酬という価値は、人間関係や社会的機能によって簡単に変化しますが、感謝は簡単には変わりません。また、褒美や報酬は、競争心や相対的な価値観、及び、物質的な欲求は満たしますが、人格的、精神的な満足や恒久的な幸福感を得ることにはつながりません。一方、他人から感謝され続けることは、感謝されることによって自分の存在の意義や価値を客観的に自他共に認識、確認できることになり、結局は、自分の心の平安や幸福感につながり、生きがいや更なる働きの意欲にもつながります。どのような人であっても、その人の役に立つこと、その人の課題や問題の解決のために尽力することなのです。困っている人がいれば助けるという単純なことですが、そこには「人に仕える」という石ころの精神が常に宿っているのです。そしてこの精神によってお互いに仕えあうことが、より良い社会の実現につながるのです。

次に、この石ころの精神は具体的にはどのような精神なのでしょうか。ここにプロテスタントの思想が大きく作用します。プロテスタントの思想では、一人ひとりの存在が自由平等であり、不当な束縛や制限から開放されるべきであると考えます。この考え方自体は、現代の民主主義社会では当たり前のことではありますが、プロテスタントの場合は、その精神的な基盤を聖書に求めます。他の誰かに指示されるのではなく、また、人に言われて行動するのではなく、自分の言動は、聖書を通して神様と直接対話し、決めるという思いがあります。聖書のことばを拠り所として、思考、行動しようとするのです。もちろん実際の社会生活では、他者の言動が自分の生活に大きく影響するので、形式的には社会的な取り決めによって行動することになります。しかし本来的には、神を信仰し、聖書を規範とする対話を通して自分の生き方を決めていることになります。

安三先生の生き方も、神様との対話を通したもので、賛美歌や聖句に基づいた言動でした。「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、自分も人にしなさい」というキリスト教の黄金律ももちろんなのですが、神様に絶対的な信頼を置いて、常に、神に見守られているという安心と自信によって、困難なことも乗り切り、その結果、驚くような偉業の連続を成し遂げられたということでしょう。このあたりが石ころの精神の強さだと思います。石ころのような自分であっても、神に見守られ、神に用いてもらえば、偉業を達成できるのだと。

 そして、しっかりと人に仕えるためには、一生懸命勉強しなければなりません。学びが大きければ大きいほど、人のため、社会のために尽くせる規模が大きくなり、自分に戻ってくる感謝も大きくなります。人生における生きがいや幸福感も、大きくなります。学問の世界は、人文学と呼ばれる人間に関する学び、社会学と呼ばれる人間社会に関する学び、そして、自然科学と呼ばれる人間以外の自然界に関する学びに大きく分けられますが、それぞれの諸学の各分野で学術が確立されており、新たな研究も続けられています。学而事人の精神からすれば、いかなる学びも人や社会に尽くすためのものなので、自分がどのようなことを問題とするのか、どの立場から社会に貢献するのかをしっかりと自覚して、必要な勉強を行うことが必要です。あまり専門だけにとらわれず、広く深く学ぶことが大事です。

そして、実際に行動すること。座学で学ぶと知識は増えますが、実際的、実用的、実務的なところは、やってみないとわかりません。実践の中で修得すべき能力もかなりの部分を占めますので、理論と実践を行き来することが重要です。どのような分野であっても、実際の活動を重視することが大事です。

学びの中にも桜美林らしさがあります。それは、その学びや取組の力を強く信じ、あきらめないことです。石ころからスタートしているので、失敗してもいつでも石ころに戻ることは可能で、そのような謙虚な気持ちを維持しつつ、自分の学びや取り組みによって解決しようとしている問題を、簡単にはあきらめないことです。物事が止まるのは、止める決断をするからです。あきらめなければ、その学びや取り組みはずっと続くのです。信じて、あきらめないことが、物事を成し遂げる最も重要な条件なのです。

そしてもうひとつ。学んで、実行して、信じて、あきらめないで頑張って、そして最終的に出た結果は、それとして素直に受け入れることです。失敗に終わっても、石ころの精神では、「プロビデンス」として受け入れます。プロビデンスとは、神の摂理などと訳されますが、要は、どのような結果であっても、それはもっと大きな結果を得るためのひとつの段階であり、いかなる結果にもそれとしての理由や意義があるということで、神様はそれを知っているという考え方です。失敗と認識される結果でも、実は、その失敗によって分かることもあるし、その失敗が土台となって、もっと大きな成功に導かれることもあります。失敗から学びことも多々あるわけです。そのように考えることを、プロビデンスと呼びます。

 学而事人をしっかり実践すれば、自分自身の生きがいを感じる豊かで幸福な人生や、人々に感謝される偉大な成功につながるということを信じてほしい。それこそが桜美林に伝わる、石ころの精神です。

ひとことお祈りいたします。恵みの神さま、今日こうして創立記念礼拝に招かれ、私たちの原点を一緒に考える機会を与えて頂き感謝します。わたしたちが石ころの精神を受け継ぎ、学而事人を実践していくことでそれぞれがお互いに感謝し、感謝され、生きがいを感じながら歩いていけますようにお導きください。この願いをイエスキリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

© HIROAKI H. HATAYAMA 2018