先日、テレビで、矢沢永吉さんのインタビューを観ました。
たまたまテレビつけた時に出てて、ワインを飲みながらだったのと、横に息子が座ってて、いろいろ話しかけられながらだったので、インタビューの内容を正確に覚えているわけではないのですが、とにかく矢沢さんは、その言動や振る舞いが際立って個性的なので、横の息子にとってはかなりめずらしく、おもしろかったらしく、二人で最後まで観ちゃいました。
いろんな逸話が紹介されましたが、その中でひとつ、ちょっとうろ覚えなのですが、こんな話がありました。
矢沢さんが、ツアーに出ている時だったかなんかで、ホテルに宿泊しなければならなかった時、いい部屋が取れなくて、それなりのところが予約されてたとのことで、そのことをスタッフが矢沢さんに伝えたところ、
「オレはいいけどさ、YAZAWAがなんて言うだろうね」
と言ったという話。
番組では、盛った話だとは紹介されましたが、いかにも矢沢永吉が(永ちゃんが)言いそうなセリフということで、今でもこの武勇伝は残っているそうです。
「オレはいいけど」という部分は、スターとしてのYAZAWAではなくて、シンプルに個人のこととしての返事なのですが、「矢沢永吉(YAZAWA)」ってのは、多くのファンから認知、認識されている人物像で、その意味では、非常に社会的な存在になります。
つまり、安い宿に泊まるってのは、YAZAWAという、その社会的存在が要求する条件では受け入れられない事態という感じでしょうか。
それ自体、イメージを崩してしまうというか。
それは、社会的存在を支えているファンの方々からすると、許されない状況という。。。
これを代弁して、矢沢さん自身が、「オレはいいけど、矢沢がなんて言うだろうね」という発想になったということですね。
インタビューを観ている時は、息子と二人でゲラゲラ笑ってたのですが、あとでふと考えて、これは「学長」という社会的な存在にも通じるところがあるなって。いろんなことに直面する時に、
「オレはいいけどさ、学長はなんて言うかね」というセリフは、成り立つのではないかと。
大きな責任を負う学長の立場から物事を処理するときには、かなり厳しい判断をしなければならない時もあるし、また、世間一般が考える「学長とはこんなものでしょう」という定義に、ある程度自分を合わせなければならない苦労もあります。
下手に自分の個性などは出せないような制約が、毎日続きますし。これは、社会人なら誰でも感じ得ることではないでしょうか。
そして、この「矢沢はなんて言うかね」という部分のもうひとつ大事なことは、その理想とする「矢沢像」を懸命に実現しよう、達成しようという強い気持ちが感じられるというところです。
そこには、いいとか悪いとか、できる、できないなどの議論はなく、シンプルに、「そうありたい」という像があって、これが達成すべき目的で、それにむかって、がむしゃらに努力するということ。
社会的な存在を完成させるために、何をどのようにすればよいか、そこを議論し、それにむかって努力を続けるということ。
さらに、それを「できると信じていること」。夢は必ず実現すると。
「矢沢」や「学長」、あるいは様々な社会的な存在に伴う一種の厳しさや責任感、質を高める義務や熱意、議論に惑わされない強い信念。やるんだ、実現するんだという気持ち。
何かをやろうとする時に、できる、できない、良い、悪いと論じることも大事だけども、その前に、よい世界、夢見る世界を信じで、思い描いたアイデアが形になることを信じることが大事なのでは。
創立者の清水先生も、今日の聖句を愛した人で、こんな言葉を残しています。
「吾輩の死後、長い歴史において桜美林学園そのものが難関にぶつかり、大いなる危機に立つこともあるだろう。その時諸君に復活の信仰があるかないかによって、学園はぺちゃんこになるか、それとも試練によっていっそう躍進するかが決まるだろう。」
論ずるよりもまずは夢を見ること、夢は必ず実現すると信じること、そしてどうやったら実現するかこそを、論じること。
そのことの真理が、今日の賛美歌と聖句に表されています。
その意味では、清水先生も、矢沢永吉みたいなもんです。
「あたしはいいけど、清水安三がなんていうかね。。。。」とか。
ーーーーーーーーーーーーー
賛美歌:357 力に満ちたる
聖句:ヘブライ人への手紙 11章1〜3節
1. 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
2. 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
3. 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。