先日、桜美林を卒業して教師になられた方々へのメッセージを書く機会がありました。自分自身も大学卒業後、県立高校の教員になったので、書きながら懐かしくその頃を思い出しました。
大学を卒業する年に、鹿児島県の教員採用試験を受けましたが採用にならず、都心にあるコンピュータ系の会社に就職が内定していました。複数回、研修会にも出て、いよいよ4月から出勤する準備を整えていたところ、3月の上旬くらいに、県教育委員会から、期限付き教員としてどうかとの連絡がありました。
迷いましたが、一度は教員を目指していたので、内定先に事情を説明、陳謝し、鹿児島に戻りました。3月下旬に、県教育委員会に出向き、赴任先は屋久島高校であると告げられました。
これはもうびっくり。東京からの荷物を、鹿児島の実家に送っていたものの、また荷造りして屋久島への準備をしました。
屋久島高校の1年は、初めての教員職で大変だったけど、とても楽しかったです。海も、山も、生徒も素晴らしかった。先生たちも助けてくれました。その年にもう一度、教員採用試験を受けて、合格し、次の4月から正式採で別の高校に異動となりました。
結局、7年間、高校の教員を務め、3回、学級担任を経験しました。若かったせいか、生徒との年も近かったので、学級の管理がうまくいかず、かなり苦労したのを覚えています。一生懸命やっているのに、学級担任としての結果が出ない状態が続きました。
今考えると、実際の仕事そのものよりも、その仕事を遂行する動機や心構えが、まだ未熟だったのだろうと思います。他者からの評価や、体裁を気にするがあまり、真のメッセージとして機能しない言葉で、生徒たちと話していたのかもしれません。仕事に対する精神的な捉え方が、半端だったわけです。
仕事しながら、つらいとか面倒だとか、嫌だという気持ちになることは、みなさんもあるでしょうが、一方で、他者からの目や、上司からの評価も気になるでしょうから、取り繕いながら仕事することもありますよね。でも、それだと、その仕事も、最高のパフォーマンスは出せないでしょう。
やはり、一種の「達観した精神的土台」を、それぞれ見つけておくべきだと思います。人生観や生き方みたいなものです。その中で、仕事を捉えておく方が、いろんなことがうまくいくと思います。
どんな仕事でも、自分がやることになったのは、意味や意義があって、自分の成長や幸せ、世の中や社会の為に繋がるのだ、などの、大きな理念です。自分に起こることはすべて受け入れる、的な寛容な心とか。。そんな土台を、持つといいでしょう。
今日の賛美歌と聖句は、「からし種」の話でした。からし種が、すぐに枯れるか、何十倍にも成長するかどうかは、土壌にかかっているわけですが、その土壌とは、ここでいうところの、人間の精神や心だと思うのです。考え方次第、捉え方次第で、自分たちに常に蒔かれる種は、大きく、強く成長するということです。
いろんな形で、あるいはいろんな機会として、種は蒔かれます。邪(よこしま)な考え方や、私利私欲に基づいて種を植えても、すぐに死んでしまいます。でも、前向きで寛容な心であきらめずに育てていけば、信じられないほどの実りを与えてくれるというわけです。
賛美歌 199 ひとつぶのからし種のよう
聖書箇所 マルコによる福音書 4章3~9節