先週の金曜日に桜美林大学と北京大学の交流会がありました。これまで長い間、両校の学術交流会を実施してきましたが、今回は趣向を変えて、「書」の交流会でした。お互いの実演も含めた展示会を開催し、大盛況でした。
夜、夕食会を催したのですが、私は中国語ができません。英語である程度はお互いに話せるものの、日本語や中国語以外ではやはり盛り上がりに欠けます。そこで、日中会話のアプリを使い、スマホで会話しました。驚くほど性能が上がっており、ほぼ、同時通訳に近い形のコミュニケーションが可能で、音声も出るので自然に会話しているかのようでした。
書も、もともとは文字でありコミュニケーションの媒体だったわけですが、今は主に、美や書体を表す芸術になっています。同じように、私たちは今、外国語を実際のコミュニケーションのために勉強していますが、テクノロジーの進化により、外国語を修得しなくても、AIのデジタルデバイスを利用してリアルタイムの言語コミュニケーションが可能になりつつあります。つまり、書が芸術になったように、語学もひょっとしたらそのうち、単なる趣味や個人的な興味に変わっていくかもしれません。
そんな中、数日前の新聞に京都学園大学が、京都先端科学大学に名称を変更し、理事長に永守重信さんが就任したとの大きな広告がでていました。永守さんは、日本電産の現会長で、特にモーターを中心とした会社を起業し、M&Aで大企業に育てあげた人として知られています。パソコンやロボット、ドローンなどが急速に流通していく中で、モーターが必須パーツだったことから急成長に成功しました。つまり、技術や社会の流れと、需要と供給に関する先見の眼があったわけです。ちょっと時代の先を読んで可能なソリューションを模索し、実現することに非常に長けた人だと思います。
本学も語学や国際教育を中心にこれまでやってきましたが、テクノロジーの発展を中心に社会が大きく変化する中で、やはり一歩先を見添えた教育研究改革を常に意識し、実行していかなければなりません。最近、大企業でさえ倒産に近い危機を迎えるのですが、事業が軌道に乗ると、仕事がルーティーン化し、形式に則ったことを中心に業務として動かしていくことが日常化します。これが衰退の始まりとなるわけです。私たちの大学も気をつけなければなりません。
今日の聖句の箇所にもありましたが、イエスキリストは常に、最も弱い立場にある人々に寄り添い、痛みを共にし、救いの手を差し伸べるとともに、私たちにも隣人を愛しなさいと説きます。苦しみや悲しみの中にある人々のところには、必ず、大きな課題や深刻な問題があります。キリスト教主義に基づく国際人の育成を謳う桜美林大学は、そこにこそ、テーマを見出し、教育研究のイノベーションやソリューションによって、それらの問題を解決していく姿勢が必要だと思います。人間にとっての問題は、人間の理知を最大限活用して解決しようと努力することが、大学の使命だと思います。認識できる問題や課題は、大学として、人々の自由と解放のために、努力しなければなりません。
できるだけルーティーン化、形式化する仕事から脱却し、常に新たな価値創造を生み出すような仕事をしながら、課題や問題に対するソリューションを提供できる大学にしていきましょう。終わります。