チャペルアワー 2019.12


タイトル: 「リデンプション」による解放と新たな精神

聖書箇所: ヨハネによる福音書2、第3章、16〜17節

日時: 12月12日(木曜日)、17:00


「リデンプション」による解放と新たな精神


自分らしさを求める心

私はボブ・マーリーが好きです。レゲエ音楽を奏でるミュージシャンです。すでに天に召されています。数多くの曲がヒットしましたが、その中に、「リデンプションソング」という歌があります。この曲はギターだけの弾き語りになっています。

奴隷の売買を表す詞から始まり、中盤から自由を求める声となっていきます。しかし途中で、単なる奴隷解放の歌ではないことに気づきます。というのも、次のような詩が出てくるからです。


心の奴隷から自分自身を解放するのだ

自分たち以外、誰も、自分たちの心を自由にすることはできないのだから

(筆者訳)

 

人間が奴隷として現実に売買される不条理そのものと戦っているのではなく、自分の心を縛りつけている思考そのものから自分自身を解放し、自由にすることを叫んでいるのです。

長い歴史の中で固定化された考え方や行動様式は、社会的な常識となってしまうので、個々人の思考や行動もそのように固定化されてしまいます。しかしそこから脱却するためには、勇気を持って自分自身で自分を解放するしかないのです。心そのものを解放しないと、現実も変わらないというわけです。

私はミスチル(ミスター・チルドレン)の曲も好きですが、彼らの曲の中にも同じような詩が出てきます。「名もなき詩」という曲ですが、次の詩が出てきます。

 

あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしてる

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら僕だってそうなんだ

(名もなき詩、Mr. Children)


誰しも「自分らしさ」という感覚を持っていると思いますが、なかなか自分らしく生きられない事情もあります。思っていることと、言っていることが違ったり、考えていることと、やっていることが合わなかったりします。これもやはり社会的に構築された常識の中で、他者との関係を意識したり、社会的な孤立を恐れたりして、個々人が思うように生きられないもどかしさが表現されています。

「リデンプション・ソング」も「名もなき詩」も、人間の心の弱さがテーマになっていると思います。弱さゆえに不条理を認めてしまったり、自分を守るために嘘をついたり、ごまかしたりしてしまいます。極端に言えば、自分で自分に制限をかけてしまうこと、自分を奴隷化することと同じです。

 

解放と自由

このようなもどかしさや苦しみについて、今日はクリスマスの特別礼拝ということなので、もう少し異なる観点から考えてみたいと思います。自分らしく生きたい、あるいは、思うがままに生きたいという気持ちに対して、日々感じてしまう苦しみはどこからやってくるのでしょうか。また、どうやったらそのような苦しみから解放されるのでしょうか。


今日の礼拝では、以下の聖書箇所を選びました。

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

(ヨハネによる福音書2、第3章、16〜17節)


「この世が救われるため」と書かれていますが、救いを必要としているのは、この世に生きる人間です。神様が、御子であるキリスト・イエスを人間としてこの世に降誕させ、人間を救う役目を与えた何かしらの理由があるわけです。

人間には本来的に様々な欲望があるために、それらが満たされないと負の感情を抱いてしまいます。例えば、嫉妬、恨み、憎しみ、嫌悪などの感情です。私たちもよく経験するように、これらの感情が原因となって人間同士の争いにまで発展することがあります。つまり、欲望が満たされないことによる不平や不満がこの世を乱す原因になっているということです。

特に、人間は相対的な価値の比較によって多様な感情を抱きます。もっとお金が欲しい、もっと綺麗になりたい、もっと健康でありたい、もっと社会に認められたいなど、他者との比較の中で自分を位置づけた結果、ある欲求が刺激され、感情が機能します。自分なりの価値基準に到達していない場合は、負の感情を抱くことになり、場合によっては他者との争いにまで発展してしまうのです。そんな世の中を、創造主である神が望むわけがありません。

結局、多様な欲望や欲求を人間は生まれながらに持ってしまうこと、そして、それらが満たされないことが原因となって負の感情が発生し、この世に様々な問題を起こしてしまうことがテーマになっているのです。キリスト教ではこのことを、人間の原罪と呼んでいます。不義、不正、悪事などは、欲望や欲求に溺れてしまう人間の本質的な弱さによるものというわけです。

キリスト・イエスの降誕から死に至り蘇る話は、究極的には人間の救済です。十字架にかかることによって、イエスが人間の原罪をすべて代わりに背負ってくれた。そのおかげですべての人間の罪が赦されるというわけです。それが神に対する感謝であり、恵みであり、キリスト・イエスを通した信仰につながります。

 

リデンプションによる新たな人生観

人間からすると、いろんな過ちを犯してしまうこと、または、そのような気持ちを持ってしまっている苦しみから解放してもらったことになります。キリスト・イエスが犠牲になってくれたことによって、人間が原罪から自由になれたということなのです。これこそがリデンプション(贖罪・解放・自由)です。

クリスマスを機に、皆さんに伝えたいのは、もし皆さんが人間関係で悩んでいたり、自分らしい生き方に躊躇したり、あるいは社会的に苦しい思いをしているのであれば、ぜひ、自分自身の心の解放から始めてほしいと思います。固定化された心をいったん自由にして、相対的な価値の世界から自分自身を解放して、かつ、自分は恵まれて、赦されていると信じて、感謝し、自分が信じる絶対的な価値の中で生きてほしい。それは、優しさであったり、友情であったり、家族愛であったり、あるいは前向きな気持ちやあきらめない精神かもしれません。自分が正しいと思うこと、善いと思うこと、美しいと思うことなどに、素直に生きることです。比較や相対による価値ではなく、自由と解放によって自らの心を支える絶対的な価値観。そこから新たな人生が始まります。 

© HIROAKI H. HATAYAMA 2018